神楽坂にある「御菓子司 梅花亭」の4代目・井上 豪氏。
全国和菓子協会が主催する優秀和菓子職に認定された数少ない和菓子職人であると同時に、「都内において極めて優れた技能を持ち、他の技能者の模範と認められる人」に与えられる東京マイスターにも認定されている経歴の持ち主だ。
その上、茶道にも通じ茶名まで頂いている。
前編では、井上 豪氏のその人生に注目したが、後編では梅花亭が開業されてからの歴史を振り返る。
1.唄ができるほど人気者だった初代・井上松蔵氏
「梅花亭」は1935年、昭和10年に淀橋区十二社(現在の新宿区西新宿4丁目)で開業した。店を開いたのは初代である井上松蔵氏。新潟県南魚沼の旧家の末っ子として生を受けた。とてもハンサムで近所の女子はわざと松蔵さんの家の前で転び、心配した松蔵さんが家から出て、助け起こすのを待っていたと言う。
なんでもその様子が「松蔵が来るまで起きない」という唄になって口ずさまれたというから、その人気は大したものだ。松蔵さんの身長は170センチと、当時では大柄でもあったから、憧れの的であったのだろう。
※上野で開いた梅花亭支店にて。ハンサムな松蔵さんのベストショット
そんな松蔵さんが上京し勤めたのが和菓子店。甘いものが大好きだったという。修行時代の背景は、戦争が始まる前であり、どんどんモノが手に入らなくなってくる。それでも交換できる物資を抱えて遠くまで足を運び、小豆と砂糖と換え、あんこ玉をつくり販売した。
そのため、柳橋では「こんな時期でも柳橋に行けば甘いものが手に入る」と噂になったそうだ。その後修行を積み、柳橋の梅花亭より暖簾分けされたのが始まりだった。
しかし、それからしばらくして松蔵さんは戦争に行くことになる。それは30歳を超えてからのことだった。
2.初代考案の銘菓「鮎の天ぷら最中」ができるまで
松蔵さんはシベリアでおよそ1年近くを過ごした。極寒の中で、朝目覚めたら仲間が冷たくなっている日々。カチカチの凍土を必死に堀り起こし、その遺体を埋葬するのが何より辛かった。
「その時のことを思うと今でも涙が出る。」そう言って涙をこぼしたと言う。
※祖父母と井上さん。松蔵さんは地域の相談役としても活躍していた
油断すればすぐに凍傷になる状況で、木の枝を拾い、手をこすりあわせ、パイプを作り上げたものが、今も井上家に残っている。ギリギリの生活で頭に浮かぶのは食べ物であり、中でも子どもの頃に食べた母親が作った「かきもち」だった。
日本に帰れる機会を得て、ようやく失った時間を取り戻し始めると、店を池袋に移し、夢にまで見たかきもちを模した和菓子を作り始めた。
「鮎の天ぷら最中」は、故郷の魚野川の鮎をイメージした形の、揚げた最中で、香ばしく他にはない味わいが人気となり、梅花亭の名物として知られるようになった。
そんな話を鮮明に話してくれた井上さんは、この祖父から和菓子についていろいろと教わった。
「私は父を10歳の時に亡くし、小学生のころから配達や簡単な作業を手伝ってきました。中学からは土日に工場に入り、祖父から手ほどきを受けてアルバイトと称してお菓子作りをしてきました。」
2代目である井上さんの父は39歳という若さで亡くなっている。
3.父親から受け継いだふわふわのどら焼きのレシピ
病で父が他界した後、3代目として跡を継いだのは父の弟である叔父だった。叔父は詩人であったため、朝早く起きて餡をつくる専門の仕事をしていたという。
父は陽気な人でよく民謡を歌っていたが、叔父は静かな人だった。そして優しい人だった。 幼くして父を亡くした井上さんと、妹、弟の3人は叔父の養子となり育てられた。
※兄弟で作ったカカシ。改装した池袋時代の梅花亭
父の思い出として心に残っているのは、どら焼きだ。
「昔は和菓子屋さんでケーキなどの洋菓子も手掛けており、父は洋菓子に力を入れていました。その父がどら焼きの製法でこだわっていたのが、どら焼きの生地を泡立て、空気を入れて「ふわっと」させる方法でした。」
それは父が残したレシピ。読み解いたのは製菓学校へ入った後のことだった。
「どら焼きの生地は、通常あまり泡立てないで作るのですが、父はミキサーを利用していました。さらに一文字という銅板の上に流して、通常はそのまま放置するのですが、父は自家製の蓋を作り、蒸らし焼きをする方法を編み出していました。こうすることで、上の面にも程よく早く熱が入り、生地の蒸気が抜けずに、ひっくり返した時に更に浮き上がるのです。」
祖父から教わってきた作り方が、どうしてそうなるのかを、理解できたのは製菓学校で基礎を学んだ後だ。
初めはわからなかったそのどら焼きの製造方法も、和菓子の基礎が身に付くにつれ、父の考え方が腑に落ちた。それは成長して捉えた父からの手紙のようなものだった。
このどら焼きは今も大切に梅花亭に受け継がれている。
4.美大で学んだ技術を生かす、4代目・井上 豪氏
井上さんは最初から製菓学校に進んでいたわけではない。東京製菓学校和菓子専科に入学する前にいたのは、和光大学芸術学科。油絵を学んでいた。
きっかけは小学生の頃に褒められた絵だった。
「当時住んでいた池袋は、戦前戦後は”池袋モンマルトル”といって絵描きが多く住む町でした。 近所の魚屋さんも絵描きをしており、大変な刺激を受けて自分も絵描き和菓子屋になりたいと、密かに思っておりました。大学の頃、その先生のおすすめもあり、豊島区美術家協会という組織に入会しました。東京芸術劇場で毎年展覧会を開くなど、8年間和菓子屋と画家の二足の草鞋(わらじ)を履いていました。」
その後、家業が忙しくなり、筆を折ったが、この絵を学んだ経験は今、和菓子に生きている。
井上さんは静かに燃えている人だと、最後に気が付いた。
そこには初代、2代目、3代目がそれぞれ与えた愛情と、自由で好きなことに取り組む姿がある。‥そんな気がした。
取材・文:都野雅子
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