逗子・葉山・横須賀

菓道一菓流の開祖「三堀純一」‥異彩を放つその生い立ちに迫る【職人特集vol.1 後編《ウラ》】

都野 雅子

銀髪に真っ黒な胴着のような衣装。何より目を惹くのは、般若のマスク。初めて見る人は一体ナニモノなのだろうと思うに違いない。

しかし、そんな黒を纏った手に咲くのは真っ赤な菊。生み出していく所作への驚きと見る間に作り出されるその美しさに感動する。

三堀純一

そこでまた、最初の疑問に戻ってしまう。この人はナニモノなのだろうか、と。

日本で初めて和菓子に「道」を付けたのが三堀純一氏。そして、その始まりは和菓子屋の3代目となったことにある。

和菓子屋の跡取りが「菓道 一菓流」の開祖となるまでのミツボリ ジュンイチ氏のお話だ。

1.父と師匠に囲まれて、和菓子の英才教育

1974年、神奈川県横須賀市で誕生したミツボリ ジュンイチは小さな頃から和菓子に親しんだ。

それというのも昭和29年から続く「和菓子司いづみや」の長男として生を受けたからだ。彼が1番最初の記憶としてあるのは幼稚園の頃、粘土で作った菊の煉り切りだという。

身近にあるものだから、興味を持つのは当然と言えば当然かもしれないが、彼は恐らく少し特異な環境で育った。


3人の和菓子職人に囲まれて育った幼少期

彼がまだ幼いころ、家には初代である祖父、2代目である父、そして父の師匠である和菓子職人がいた。

祖父はほぼ引退状態で、父が社長として店を切り盛り。そして従業員として、父の師匠がお店で働いているという環境でミツボリ ジュンイチは幼少期を過ごした。

彼には弟と妹がいるが、兄弟が遊んでいる時も、父と父の師匠に「お前は長男だからこっちにこい」と作業場に連れて行かれた。

三堀純一

写真に写っている父、そして父の師匠から技術を叩き込まれる日々。

その上、祖父は弟や妹にはたっぷり渡すお小遣いも、「お前には店をやるから」と彼には1円もくれなかったという。


学生時代に選択した道

成長するにつれ、子ども心に芽生えたのは『俺は俺として見てもらえていない、父が自分を見る目は跡継ぎ息子としてだけだ』という想い。それは日増しに大きくなっていった。

決められていた将来に反発するように、高校卒業後は上京してミュージシャンを目指すつもりでいた。

しかし母に「私達に何かあった時に困るから、製菓衛生師だけ取っといて‥」とお願いされ、「学校に行ってくれさえすれば、30歳まで好きなことしてくれて構わないから」とのお墨付きを得たことで、とりあえず東京製菓学校和菓子本科への入学を決めた。

幼い頃から刷り込まれた跡取りという言葉だけなら全てを捨てたかもしれない。


2.祖父に学んだ心意気。アートを追い求めたその先に

三堀純一


「和菓子司いづみや」の始まり

祖父・文男が「和菓子司いづみや」を創業したのは昭和29年。戦争が終わって日本が落ち着いた頃だった。

生き抜くために様々な仕事をしていた祖父が、祖母の親戚から「これ、いらないか?」ともらったのが大判焼きの銅版。

あんこも炊いたことのない祖父母が、その銅版を持ち帰ったその晩に2人揃って同じ夢を見た。同じ夢を見ること自体めったにないことだが、その夢の内容がまた変わっていた。

なんと銅版からドバーッと小豆が「泉」のように沸いてきたのだという。まるで昔話に出てきそうな話だが、身を持って体験した祖父母にとってはかなりの衝撃だったに違いない。 そこで、これは「あんこもの」は間違いない、と独学であんこ炊きを勉強。開く店の名前は縁起を担いで「いづみや」と決めた。

毎日毎日、研究を重ねた結果、40才の時にはあんこばかり食べていたからか歯がほとんどなくなってしまった。また、残っていた数本の歯の治療に行く時間がもったいない、と健康な歯も全てすべて抜いてしまったという。

そんな思い切りの良さが祖父の魅力だった。

三堀純一

しかし、そんな努力の賜として祖父の焼いた大判焼は、あんこの美味しさで大評判となり、「和菓子司いづみや」の礎を盤石なものにした。

この祖父は93歳まで生きた。祖父のあんこ作りは亡くなる3ヶ月前まで続いた。

祖父が亡くなる前に最後に迎えた大晦日に突然、 「俺、もう来年、つまり明日からあんこ取らねぇから。これ最後だ。」と言った。

そして、自分で最後だと決めたその日‥あんこを作り終えた後、 「いやぁ最後まで100点取れなかったわ。」と笑っていたのが彼の心に残っている。

60年あんこをつくり続けてきて、「100点取れなかった」という言葉と笑顔を見た時に、 「すげぇいいあんこ人生だったんだろうな。」と思ったという。最後まで挑戦し続けられることの喜びを祖父から学んだ。


和菓子とアートがつながった瞬間

祖父から挑戦することの喜びを学んだミツボリ ジュンイチは、親への反抗心からアーティスティックな世界に憧れていた。彼自身、自分の自己承認欲求が強いこともわかっていた。

その欲求があるまま20代後半を迎えた頃、親戚の縁からアメリカの「ミセス・フジコ・ケメット(アーティスト)」の招待を受けて渡米。そこで自分の作り出す煉り切りを多くの人に評価された時に、初めてこれがアートだということに気が付いた。

三堀純一

当たり前のように自分の中にあったものが、実は自分が求めていたアートだと腑に落ちた瞬間だった。

好きなギターでは練習しても届かない領域があったが、身を入れていなかった和菓子ではメディアにも取り上げられ、周りの人にも評価されていく。この世界で表現するなら、1番うまくできるかもしれない、自分に向いているかもしれないと初めてスイッチが入った。

そこからが、ミツボリ ジュンイチの新たな挑戦となった。才能はあるもののこれまでないがしろにしてきた技術だったため「一日一菓 WAGASHI of the Day」を自らに課し、2015年から毎日、得意な「煉切細工」を中心につくり続ける。

三堀純一

三堀純一

三堀純一

三堀純一

1年を過ぎた時、和菓子店3代目、和菓子職人、和菓子アーティスト、それぞれの立場から見えてくる和菓子のこれからについて考える日が続いた。

思案の末に辿り着いたのが「菓道 一菓流」を開くことだった。


3.「菓道 一菓流」を体現していく

ミツボリ ジュンイチは精力的に菓道家として活動する中で、彼自身も学びを深めていく。その1つが「禅」だ。

座右の銘でもある「色即是空」は般若心経の言葉で、現世にあるあらゆる物事や現象は、実体がないという意味があり、善と悪、男と女、また黒と白は2つで1つという考え方もある。

彼が身に纏うのは黒。彼の中の黒は月だった。

洋菓子は「陽」のお菓子であり、彩りが豊かで心が高揚するが、和菓子は「月」のお菓子。心静かに引き込まれるものだという。

三堀純一

「私が持っている手形煉り切りはほとんど、白なんですよ。その白が浮かぶとお月様になる。このマスクも言葉を殺ぐために作りました。」その般若のマスクは通常の般若の面とは違うところがある。

般若の牙は人を妬んで下から伸びているが、彼にはそれはない。そのため上の牙が伸びている。また、般若は女の面。それを男の彼が着けるのも陰と陽の体現かもしれない。

祖父と父の背中から学んだように、今は自分も背中を見せる。和菓子司いづみや3代目、そして「菓道 一菓流」の道はまだ始まったばかりだ。

取材・文:都野雅子

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