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磯子風月堂の三代目「石原マサミ」。夫婦で修行し、家業を継いだ女性和菓子職人【職人特集vol.3】

都野 雅子

プロフィール(石原マサミ):1968年、神奈川県横浜市生まれ。昭和13年に創業した【磯子風月堂】の三代目。幼少期から家業の和菓子作りを見て育つ。

二代目である父の代にいた和菓子職人に弟子入りし、家業を継ぐことに。同時に弟子入りした夫と共に日々精進しながら、昔ながらの技術を次代に伝えることを大切にしている。

磯子風月堂 左:石原マサミさんご本人、右:夫の石原勝利さん

1.一念発起。和菓子職人に弟子入りするまで

どんな職業にも男女区別なく働ける今とは違い「以前は和菓子職人の世界に、女性が入れるような雰囲気はなかった」‥そう話してくれたのは【磯子風月堂】三代目の石原マサミさん。

今でこそ増えているが、本人曰く「恐らく国内最高年齢の女性和菓子職人」だと言う。

祖父が開き、父がその跡を継ぎ、その後のことを考えないわけではなかったが、自分は女性だということが何よりも大きかった。家にはすごい技術を持った職人がおり、ある時ミカンだと思って口にしたら、それがよくできた「練りきり」だったことが記憶に残っている。

腕一つを頼りに仕事をするそんな職人の姿を間近に見ながら育ち、就職は好きだった服飾関係へ進み、そこで夫である勝利さんと出会った。夫婦共に好きな仕事をしていたがある日、実家で長く働いていた職人が2人、年齢を理由に引退するという話を聞いた。

その時浮かんだのが「このまま廃れさせてしまうのはもったいない」という想い。そして、その想いを後押ししたのは勝利さんだった。

「それなら、やってみよう!」とこれまでとは全く違う和菓子作りの世界に入ることを決断した。マサミさんは「未知の世界で面白かったようです」と、今振り返る。

大変なことはよくわかっていたが、こうして夫婦2人の挑戦が始まった。


2.夫婦そろって修行の日々。昔ながらの技術を守って

磯子風月堂で働いていた職人が引退する前に、石原さん夫婦はそろって弟子入りをした。
「以前は女性が入れる職場ではありませんでしたので、実家とはいえ女性に技術を教えてくれた先代の職人に大変感謝しています」‥と話す。

マサミさんは和菓子職人として技術を学び、製菓衛生士の免許も独学で習得。また、勝利さんは水板職人としての修行を重ねた。

磯子風月堂

水板職人は「調理場のことを、”板場”というところからきているかもしれません‥」と、その語源も定かではないほど、今では忘れられた職種だという。

水板職人の1日の仕事は、餅やあんこなど、他の人の作業が始まる前に全ての仕込みを完了させるため、誰よりも朝が早く、昼頃には後片付けとなる。

磯子風月堂

磯子風月堂では饅頭も手包みのため、一つ一つ時間がかかる。そのため水板以外の作業であるが、あんを包む作業も勝利さんの仕事となった。

磯子風月堂

仕事を始めて、マサミさんは早起きが一番辛かったが、勝利さんはその作業の性質上、腰を痛めることが多い。そして今では日常となったその仕事は、もう19年目に突入した。

「製菓学校で学ぶのがオーソドックスな今、兄弟子から学ぶこと自体かなり珍しいことだと思います。」

その昔ながらの修行で学んだ技術は、和菓子職人の技をそのまま受け付いだ技術のため、磯子風月堂では昔の道具も現役だ。

磯子風月堂

磯子風月堂

「デザインや技法が他のお店と少し違っているのは、昭和期の技術をそのまま受け継いでいるからかもしれません」

この昔ながらの技術を後世に残したいと今、マサミさんは和菓子講師としても活躍中。日本にはこんなに可愛い、綺麗な物があるという事や、和菓子の色形にまつわる伝承など、文化を伝えていきたいという。

磯子風月堂

それぞれに想いや願いがあって形になる。そんな和菓子作りは近年注目を浴びている。


3.見染られた黒糖饅頭。そしてアマビエに感謝

磯子風月堂

その電話は突然かかってきた。
NHKのドラマで使いたいというオファーだった。連続テレビ小説「半分、青い。」に登場した黒糖饅頭は、機械ではないその手包みの饅頭がイメージにあうという理由で採用されたという。

包餡もそうだが、焼印は未だに鋳物製のバーナー式だ。その温かさが伝わるのはその饅頭の背景に作った人の姿が浮かぶからかもしれない。

とはいえ、何がなんでも「手作り」というわけではない。「手作りについては工程の一部を機械に置き換えたほうが綺麗に美味しく出来る場合もあるので、柔軟に考えて作業しています」とのこと。美しく・美味しく製品が仕上がることを一番大切にしているという。

そこには「和菓子研究家」でなく「和菓子職人」だという想いがある。

磯子風月堂

マサミさんは錦玉(寒天を主原料とした涼しげな和菓子)が好きで、通年で作っているという。

「普通は夏場に使う素材なので、うちは錦玉の和菓子を日本でもっとも作っている和菓子屋かもしれません。」

中でも昭和期に流行した「水中花」をモチーフにした「花氷」、十五夜の「月うさぎ」が大好きだと笑う。

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そして、今年。コロナ禍の最中に生まれたのが「アマビエ」様だった。 2月頃にTwitterでアマビエチャレンジが話題になっているのを知り、昔使っていた「青海波文様」の焼印を見つけ、疫病退散の思いを込めて形にしたという。

磯子風月堂

「青海波文様には『平穏な日々が続く』という意味があるので、アマビエ様に使いたかったのです。」早速、Twitterに投稿したところ大きな反響となった。一時期落ち込んだ注文もアマビエ様に助けてもらったと話す。

そして何より感じたのが人との繋がりや優しさ。
「全国の皆様からお声がけ頂き、本当に嬉しくなりました。多分日本で一番『アマビエ様』を愛する和菓子職人です。」

磯子風月堂では、今日も夫婦で昔ながらの技術を用いて、和菓子が作られている。

取材・文:都野 雅子