旧暦の6月を指す、和風月名(わふうげつめい)は「水無月」。新暦では6月下旬から8月上旬ごろに当たるため、梅雨時の雨が多い時期なのに水が無い月ってどういうこと? と思った人もいるのではないでしょうか。
水無月の由来は諸説ありますが、水無月の「無」は「ない」ではなく、連体助詞の「の」であり、水無月=「水の月」であるとする説が有力です。水田に水が多く必要とされる時季なので、水の月と呼ばれるようになったのではと言われています。和風月名は、もともとは旧暦の季節や行事に合わせたものなので、現在の暦とは1ヶ月ほど季節感のズレがあるようです。
いにしえより、旧暦6月1日は「氷の朔日(ついたち)」と言われ、この日に氷室の氷を口にすると夏痩せしないで元気に夏を越せると伝えられていました。平安時代には「氷室の節会(せちえ)」と称して、宮中では毎年この日に氷室の氷を取り寄せ、諸臣にも分け与えて、皆で氷を口にして暑気を払っていたといいます。
しかし氷室の氷を口にできるのは身分の高い人のみ。氷など口にすることもできない庶民は、氷の代わりに正月の鏡餅を寒い間に凍らせて乾燥させた氷餅を食べていたのです。
また、氷室の氷といえば、江戸時代には加賀藩が旧暦の6月1日に将軍家へ氷を献上する習慣があり、金沢から遠く離れた江戸まで、約480キロの道のりをわずか4日という短期間で運んでいました。山越え、谷越えの悪路を重い氷を持って、一日に120キロも運ぶのは大変なことだったでしょう。また、この時献上されていたのは氷とはいっても、実際は雪が固まったもので、土などが交じり、そのまま口に入れることはなく、涼を楽しんだり、果物などを冷やすのに使われたと考えられています。
この時に道中の無事を願って神社に奉納されていたのが、金沢の夏の風物詩「氷室饅頭」です。無病息災を願って白、緑、ピンクに色づけされた麦饅頭。それぞれの色には意味があり、白は清浄、緑は健康、ピンクは魔除けといわれています。
©金沢市
氷室開きの行事は昭和30年代に一度廃れましたが、昭和61(1986)年に地元の観光協会が中心となって復活させ、金沢市などが協力して氷室を復元しました。現在金沢では、新暦の6月30日を「氷室開き」とし、その翌日の7月1日を「氷室の日」と呼んで、一年の無病息災を願って氷室饅頭を食べるそうです。地元の人々は、列を作ってこれを買い求めるといいます。
一方、京都の神社では、旧暦6月の晦日、6月30日には「夏越の祓(なごしのはらえ)」という厄払いの神事が行われていました。これは一年の折り返し点に、過ぎた半年の穢れをはらい、一年の残り半分の息災を願って行われる行事です。その由来は大変古く、日本書紀のスサノオノミコトと蘇民将来(そみんしょうらい)の故事にまでさかのぼるそうです。「夏越の祓」は、現在では各地の寺社で行われていて、この日は神社の鳥居の下や境内に茅(チガヤ)で作られた大きな輪が用意されます。参拝者が神拝詞(となえことば)を唱えながら、この輪を8の字に3度くぐり抜けると、この半年の間に身についた穢れがはらわれ、厄災を払い、疫病を退けるといわれています。
そして、この夏越の祓の定番和菓子とされているのが「水無月」です。三角形に切った白いういろうに、甘く炊いた小豆をのせたものが水無月。6月の和風月名と同じ名前です。この時期の京都ではどこの和菓子屋でも目にすることができます。最近では、関東の和菓子屋でも見るようになってきました。ういろうの代わりに葛餅を使って氷感を強めた水無月もあるようです。
水無月に使われている小豆の赤には魔除けの意味があり、三角形の白いういろうは、氷室から切り出した氷を模しているそうです。これも、氷が手に入らない時期の氷代わりだったのだとすると、6月30日の夏越の祓ではなく、1日の氷室の節会に食するのがふさわしい気がするのは筆者だけでしょうか?
今回紹介した、2種類の和菓子。いずれも、その土地の風習と密接に結びついたものでした。どちらも食べられる期間が限定された和菓子ですので、機会を逃さないようご注意ください。
文:oriori編集部