No Area

南蛮菓子から日本の伝統菓子へ:金平糖の400年を紡ぐ、トゲトゲの秘密

oriori編集部

7月7日は金平糖の日です。金平糖を製造している4社で結成された「金平糖deつなぐ会」が制定しました。「七夕」の日に星の形をしているコンペイトウを全国で食べることで天の川を作り、織姫と彦星が会えることを願って記念日としたものです。

金平糖は、ポルトガルにルーツを持つ、砂糖菓子。ポルトガル語では「コンフェイト/Confeito」と呼ばれます。日本へは安土桃山時代に伝来し、1569年には宣教師ルイス・フロイスが、織田信長にガラス瓶に入ったコンフェイトを献上した記録が残っています。そういえば、徳川家康の生涯を描いたドラマで、信長から家康にコンフェイトが下賜されるシーンがありました。当時、ポルトガルから輸入されるコンフェイトはとても珍しいもので、献上品として公家や一部の高名な武士しか口にすることができない貴重なお菓子でした。輸入品ということもあり、その製造法は厳重な秘密とされていました。ポルトガル製のコンフェイトは、イガも小さく、白いゴツゴツした小さな砂糖の塊であったといわれています。コンフェイトの核には、伝統的にフェンネルシードというスパイスが使われていたようです。現在、ポルトガルで作られているコンフェイトも、同様に白くゴツゴツした硬い糖衣菓子のような姿で、独自の進化を遂げた日本の金平糖とは少し異なるようです。

その後、1612年にキリスト教の禁教令により、ポルトガル人が追放されると、南蛮菓子であるコンフェイトは一時、姿を消します。しかし、江戸中期の元禄年間(1688~1704年頃)に長崎の菓子職人が2年にわたる研究の末、初めて金平糖の国内製造に成功しました。これは当時貴重であった砂糖が交易品として、長崎の出島に頻繁に陸揚げされていたことが背景にあると考えられます。その後、8代将軍吉宗による砂糖の国産化奨励と時を同じくして、国産金平糖は京都や江戸へと広がりを見せました。その頃には、現在の金平糖に近い色付きのものに仕上がっていたといわれています。多くの菓子職人たちの研究、改良によって、日本オリジナルの金平糖が作られるようになったのです。

芥子の種やもち米を砕いたイラ粉を核にして糖蜜を回し掛けしながら職人が作る手作りの金平糖は、完成までに約2週間を要します。そのため、明治時代までは裕福な家庭のお菓子でした。その後、全国的な規模で機械を使った大量生産が始まり、一時は駄菓子屋にも置かれるほど人気を博しましたが、キャラメルやドロップ、チョコレートといった、より手軽に作れる新しい菓子の台頭により、現在、国内に残っている金平糖メーカーは10軒にも満たないといわれています。

金平糖といえば、「ツノ」とか「イガ」とか呼ばれる突起物が特徴ですが、それが形成されるメカニズムはまだよく分かってはいないそうです。有名な物理学者である寺田寅彦氏もツノのでき方について考察していたらしく、物理学の視点からツノの形成過程について随筆に書いています。シンメトリーの考え方からいうと、なぜ金平糖が球形ではなく、ツノのある形に成長していくのか、よくわからないと。おそらくは自然界の「揺らぎ」のようなものが強く作用しているのではないかと推測していますが、この具体的な条件が何であるかはまだよくわからないといっています。

ツノの数は、16から24本にもっとも多く分布していて、平均すると18本程度になるらしいそうです。なんとも不思議なお菓子ですね。ちなみに江戸時代に幕府に献上された金平糖は、多数の中から36本のツノを持つものだけを選び出したと伝えられています。ツノが多いのが貴重なのかもしれませんが、数えるのが大変そうです。

皇室でもボンボニエールに入れられた金平糖が、慶事の引き出物の定番とされてきました。どうして皇族の結婚の引き出物に金平糖が使われるようになったのか、明確な理由はわかっていません。ただ、明治天皇の時代からよく使われるようになったそうで、当然ながら、引き出物となっている金平糖は伝統的な手法で時間を掛けて職人が作ったものです。一説ではそのじっくり育てる製法がこれから時間を掛けて新しく家庭を築いていく夫婦二人の姿に重ねられているのだともいわれています。

縁起のよいお菓子、金平糖は西洋で生まれ、日本で育まれた繊細な砂糖菓子です。七夕の夜、星に願いをかけながら、じんわりと味わってみてください。

文:oriori編集部